めだどくしょ

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視覚の強調の世界へと飛び込む | 「グーテンベルクの銀河系」読了

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写真は、次に読むマクルーハンの本と一緒に合わせて。

メディアの理解を深めるため、そして今後の理解において礎を築くために、まあまあ大変でしたが頑張って400頁読了しました。

なお、早速読書感想に入りますが、作者のマクルーハンがどういう方なのかを、Wikipediaレベルでいいので是非ご覧ください。


マクルーハンこそ元祖キュレーター

前にちょろっと、津田大介さんの本のレビューを書いたのだが、彼は一つの情報の筋、文脈を専門とするキュレーターを目指すのにツイッターを駆使している、と書いていた。

マクルーハンはまさにキュレーターである。

実は、これのずっとまえに「今こそ読みたいマクルーハン」を読んだのだが、そこではマクルーハンは先人の研究を文章にまとめる際に再構成するのが上手い、ただアイデアはともかくとして、自分で発見した事実が(おそらく)ないというところで肩透かしを食う読者もいた、という説明があった。

だがこの姿勢、まさに津田さんの話すキュレーターの姿である。多用で大量なインプットから、受け手が一番欲しい形態に情報を加工できる。

この先進性は身体が震える。当時でも自分の想像以上に評価されていただろうマクルーハン先生だが、まさしく情報分野のキリストのように復活が望まれているのではないだろうか。

反面、マクルーハンの文章の引用量がエグい。自分もこうなるためには、もっともっと勉強しないといけない…。生涯をかけてでも。

メディアの影響は、生涯研究するに値する

ここまで、客観的に活字時代の生活様式を知ることはなかった。

19世紀末からニュー・メディアが台頭し、人々の感覚比率が変更され、視覚だけが強調された世界。 自分が生まれた頃にはテレビもラジオもあって、自分の場合は小さな頃からパソコンも使う機会があった。「携帯電話なのに、音楽が聞けるんだ!」という、人とはズレた理由でiPhoneというスマホも高校の頃に買った。そんな自分にはまさに考えられない世界だ。

そんな表面だけにこの本は留まらない。

グーテンベルクの銀河系」はまさにルネサンス以降の西欧歴史の旅。そして、その海を思う存分に泳ぐのに必要な周辺知識。

数学、哲学、形而上学、科学、物理学、幾何学、経済学、統計学、芸術学、(人)文学…。ついでに宗教もそう。

活字を軸に、五感における視覚の比率が強調されて、発達した数々の分野。元々は勉強といえば哲学しかなかった中で、活字によって知識の複製が可能となり、分野の分業化・専門化が捗るに至った。

本を読み終えた自分なら、どこかしらすんなり理解できる。知識を文字として持ち帰ることができるようになれば、必ずしも人が集まる必要はない。それが活字印刷の普及により文法も定まるようになれば、非属人的な、普遍的でスタンダード化された知識として、それを人に頼らずに活用することができる。だから人類は分業が果たせるようになったのだ。

この本によって、様々な分野の発達が活字に支えられたことが分かったわけだが、その凄さを180度理解するには、やっっっぱりまだ勉強が足りていない笑

ただ保証はする。この本という海を泳ぐことで、様々な知識が体系化されるどころか、それこそこの本を読んだという経験が感性に対して拡張を図る。新しい自分になれるはず。

それこそ説いているのは「歴史はメディアによって変わった」という一つの側面でしかないため、"メディア"でっかちともいえそうな知識の強調が、今では怖いぐらい。それこそ西欧人が視覚の強調を体験したかのように。

それぐらいに濃い影響を与えた本だが、やはりここはバランス感覚をなくしたくはない。重要な指針を手に入れたが、それは道具でしかない。ちゃんと、他の分野の本も読まないとな。

感覚には比率がある

それともう一つ、感覚比率(と強調)と同じぐらいに「感覚の相互作用」が、マクルーハンの掲げているテーマとして、この本でも割合を多く占める。感覚の相互作用こそ、活字時代の前に人類が尊重していた感覚、また電子時代で復活を遂げた感覚である。

私が何故だが、特に本の中で特徴的に覚えているエピソードに、活字時代より前の西欧の教会の話がある。

マクルーハン曰く、かつての聖書は、文字を透過させて読むものであった、だそうだ。

詳しく書くと、光を通す建築こそがゴシック建築であって、まさに当時から透明建築の名で親しまれていた。これは聖書の語義解釈に必要な感覚へのアプローチに関係することで、このことにより信者はページの物理的表面を読まない。テキストを"通して"、神の言い伝えを見る仕組みが、実際に前まであったのだ。

教会にあるスピリチュアルなイメージは、まさに感覚の相互作用が背景にあったのだと教えてくれるエピソードである。

だがこれが活字の普及に伴い、ほとんどの教会が聖書の物理的表面が見やすくなるように、照射する光を求めて磨りガラスに変えてしまったらしい。それを読んだ時、西欧人でもない私は、ちょっぴり悲しいなと思ってしまった。それだと光の差し込み方も、そんなに美しくなさそうだよね…。

他にも宗教にまつわる話が盛り沢山なので、是非読んでほしい。また、そのような視覚の強調が、どうやって同時的文化の側面を持つ電子時代によって瓦解、解体されたのかも、よく分かるかと思います。

それでいうともう一つ。例えば、印刷の結果としての分業の波は教会にも押し寄せて、共に同時に、神の言葉を解釈する機会が信仰者の間で減ったからこそ、それを独自に解釈する者が後を絶たなかったそうだ。

散々、経験がいかに均質化されて、そこからパッケージ化されて流通されたが世界を作り直したことを説明してきた中で、これは活字の普及による西欧の個人主義が進んだ際の、レアケースといえる問題であった。だって、それは最悪の場合は信者の改宗につながることもあり得た。

だがそのような問題に対して、今であればラジオがある。テレビがある。これにより信仰の教えに独自の解釈を挟まれることはないわけだ。

(インターネットもあるわけだけど、それはちょっと違う問題を孕んでいそうだな…)

活字によって生まれた線形思考

最後に、全てを取り上げようとするとキリがないので、残りの関心を書くと、線形思考にまつわる考えも面白かった。

資本主義が成り立つにあたってライン生産が生まれたわけだが、その部品が一つの消費財になるという思考をするためには、長年の活字文化による精神変容が必要とされる。それにより、線形思考を用いて、部品達が一つの商品になる、というのを考えることができるからだ。本の最後の方にある説明だが、すごく興味深かった。

というのもこの本、最初の方は最初の方で、未開部族のメディアへの理解を淡々と説明している。 自分なんか考え方ことがなかったような事実だが、アフリカにいるような、近代文化の影響を逃れた部族は、本当の意味でテレビの見方が分からないのだ。

テレビという箱に本当の人が入っていると思っている、というのもそうなのだが、何よりも映像番組が伝えるストーリーを、自分たちの中で組み立てることができないそうなのだ。

何かの映画やドラマが流れているとする。シーンが変わる。我々は線形思考が発達しているから、一見無関係にみえるこの二つのシーンを意味的に繋げて、頭のなかでその意図を読み取ることができる。「あ、あのシーンからこのシーンに移ったのね。その理由は…」という具合に。

だが、未開部族の人たちは、シーンが変わるだけで大慌てするのだ。「今いた人間たちは、どこへ消えた?」と、テレビの裏や周りを探索し始める。AとBを結びつけることができないのだ。 このように、そもそもテレビをじっと見ることすら困難なのである。

本の中では言及はなかったが、これは例え西欧人でも、活字が生まれる前までは同じアクションを示したと思われる。

これも冒頭にあった説明だが、まず「蛇口をひねる」→「水が出る」という、生活するにあたって利用する因果関係たちを捉える思考は、活字によって育まれたわけだ。特に西欧人は、活字が普及してからは均質で連続する空間に生きていて、原因がすぐに結果を出し、それがすぐに原因になる世界に住むこととなったからだ。我々は機械的に因果関係を考えられるのだ。

口語社会(上のような部族社会)では文字と言葉の意味が切り離せないこと、そして活字社会では文字と言葉の意味を、表音文字によって切り離すことができること。これに注目して読んでいただきたい。

というように、本の中で類似する展開が結ぶ形で最後が締めくくられるのも興味深いのだが、まず線形思考の偉大さ、といっていいのだろうか…、どれだけ我々の生活を豊かにしているかには驚きを隠せなかった。

それにしても、アフリカの話については、全てショッキングだったなー。


以上のように、「グーテンベルクの銀河系」は素晴らしい本なので、みんなも是非読みましょう。

私はこの本を読んで良かったと思います。自分の世界にある様々な事象に対して、その意味を考える知恵を授かってくれたからです。

心の豊かさって本当にあるんだな、というのが読書感想です。

内容が内容だけに多い(ページ数400頁的な意味で)ので、記事も前後編に分けようと思いましたが、やはり自分の勉強時間を削りたくないのでガッツリ割愛しました。ごめんね!